小池至夫水彩画(通称ガッシュ)の世界

私、小池至夫(こいけのりお)が描いた水彩画を紹介しています。

真の政治家「田中角栄」先生ー63

 

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真の政治家「田中角栄」-63

私が感じた角栄先生のことを描いてみました。

左下に西山町の生家を、そして右に大地に根を降ろした印象の先生の銅像

上には、成し遂げられた大事業と日本の国旗を、右上に高田城址公園で

スケッチした桜の花一輪を、先生の銅像の左側には、「責任は俺がとる」

右上にには。「よっしや  々  」と先生の、お言葉を。

右には、64,65代の内閣総理大臣をされましたことを描きました。

そして、バックの青色は、日本晴れを表しています。

いい時代でした。

(絵画のサイズと写真とプリンターのサイズの違いで、みずらくなりまして

申し訳ございません。)

 

角栄先生は、大正7年5月4日、田中家の二男として西山町(新潟県柏崎市〉に

生を受け、若くして建設会社を、起こされ、28才で衆議院議員に初当選され

各大臣、幹事長などをされ、54才で内閣総理大臣になられ、二期勤められ

数々の大事業を成し遂げられました。

そして75年の生涯を全うされました。

 

政界歴 昭和22年 衆議院議員初当選 28才

    昭和30年 衆議院議員商工委員長

    昭和32年 郵政大臣     39才

    昭和36年 政調会長

    昭和37年 大蔵大臣( 1期 )

    昭和38年 大蔵大臣( 2期 )

    昭和39年 大蔵大臣( 3期 )

    昭和40年 幹事長 ( 1期 )

    昭和41年 幹事長 ( 2期 )

    昭和42年 幹事長 ( 3期 )

    昭和45年 幹事長 ( 4,5期 )

    昭和46年 通商産業大臣

    昭和47年 内閣総理大臣 ( 1期 ) 54才

    昭和47年 内閣総理大臣 ( 2期 )~昭和49年

                  

    平成2年 政界引退

 

成し遂げられたこと(主なこと)

    日中国交正常化

    日本列島改造論による日本の方向性

    新幹線の実行化

    高速道路の実行化

    議員立法117本可決成立

    公立学校の教員給与の引き上げと教員地位や質の向上

 

世間一般より言われていた別称

    今太閤

    コンピューターつきブルドーザー

 

主なエピソード

   〇 法律等々、大変な勉強家でした。

   〇記憶力が抜群で、一度あった人のことは、必ず覚えていました。

   〇相手が日本人であれ外国人であれ、できることは「できる」と言い

    できないことは「できない」と、はっきり言い、あいまいの言い方

    を嫌いました。

   〇全ての責任は、私がとるので、やりなさいといわれました。

   〇初めに結論を言いなさい、理由は三つに限定しなさいと言われました

   〇祝い事には遅れてもいいが、葬儀には、真っ先に、駆け付けなさい。

   〇時間に関しては、大変に厳しかったそうです。

   〇田中派の若手議員が美人局に引っかかり、角栄さんに100万円の無心に

    きたときには、話半分に承諾して、ものの30分で若手議員の下に届いた

    封筒には300万円が入っており、

    「100万円でけりを付けろ」

    「次の100万円で不始末のせいで世話になった人間に。うまいものを

     食べさせてやれ」

    「次の100万円は、万が一の為にとっておけ」

    そして「全額返済無用」と言うメモが同封されていました。

           〇大蔵大臣のころには、国家予算の隅積みまで全部、頭に入っていました。

   〇官僚の皆さんとも正論で、意見交換をされていました。

 

人前での演説

    〇三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばせば、越後に雪は降らない、

     そして、その土を日本海に運べば佐渡と陸続きになる。

    〇このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのは、おかしい

     との批判があるが、そんなことはない。

     親、子、孫が故郷を捨てずに住むことができるようにするのが政治の

     基本なんだ。

     だから私は、このトンネルを造ったのだ。

     トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。

     冬場に病人が出たら、戸板一枚で、雪道を運んで行かなきゃならん、

     同じ日本人が、同じ保険料を払っているのに、こんな不公平があるか。

                 (このトンネルは、小千谷市塩谷の塩谷トンネルのことです)

 

最後に、角栄先生は、まれにみる才覚と先見性..そして勉強家で一生懸命に仕事をされ

 庶民のことを第一に考えて、人のいたみがわかり、人の情けもわかり、大仕事に関

 しても、適格の判断で本質を外さずに即断し実行されたかたでは、なかったで

 しょうか。

 そして、本来、日本人が誰もが持っていて、忘れている大事なことを、持って

 おられ、それらを、成し遂げられた方ではなかったでしょうか。

 それは、日本人そして越後の人間が持っていた、勤勉さ、正直さ、粘りづよさ、

 責任感の強さ、義理堅さ、、思いやり、等々と思います。

 本来、人間一人では、限りがありますが、そういったことが人々の心に響き

 協力を得られ、成し遂げることができたのでは、ないでしょうか。

 

   指導者として、壮大な夢とビジョンをもっておられ、それに向かって、懸命に

 また、責任をもって成し遂げられました。

 想像もつかない苦難の道のりであったと思いますが、角栄先生は、きっと、政治活動

 を、楽しまれて、おられたのではと思います。

 

 本来、政治活動に限らず、仕事というものは、大変さの裏側に、そういう

 部分があり、頑張れるのでは、ないでしょうか。

 

 まさに、百年に一人の総理大臣と、思わざるをえません。

 そして、物言いが分かり易く、温かい血の通った人間味のある政治家でも

 いらっしゃいました。

 

世界のため、日本のため、故郷のため、あらゆる人のために、心血をそそいで

 寝る間も惜しまず政治活動を全うしてくださいました。 

 本当に、ありがとうございました。

 日本人として、新潟県人としても、誇らしく、誇りに思います。

 大変に,ご苦労様で御座いました。

 

私事ですが、

 どうしても、角栄先生の作品を描きたくて、令和2年4月5日、遅い朝食のあと

 洗面所で身支度していたら、妻より、角栄記念館へ、行って来たらと同意を得

 AM11時半に家をでました。

 途中、米山海岸では、低い白波が岸より20,30メートル位まで、まるで、白い

 じゅうたんを敷き詰めたみたいに海岸線沿いに続いていました。

 そしてPM1時に田中角栄記念館につきました。

 入館して、すぐにアルコール消毒をして、係の方が、丁寧に案内してくれました。

 先生の立たれた銅像があり、中には、大きな書がたくさん展示されていました。

 中でも、わたしは、「神霊」と言う書がとても、素晴らしいと思いました。

 そして中国の首脳との写真が飾られていました。

 ゴルフのジャックニコラウスさんとのツーショット写真や、伊東深水さんの

 珍しいバラの絵画とか、また目白邸の応接間も再現されていました。

 当時の先生のご活躍が、目に浮かぶようです。

 記念館は、これで5回目ですが、いつもは、涙腺がゆるくなるのですが、今回は

 取材を目的にきましたので、少し緩和されたみたいです。

 いつ、お邪魔しても先生の政治活動の凄さと人となりの、すばらしさに日本人として

 また新潟県人として、人として、尊敬して、誇りに思い、そして、いくら感謝しても

 感謝しきれません。本当にありがとうございました。

 また、心の糧に、お邪魔させてください。

 

作品については、描きたいことが沢山あり、集約するのに苦労しました。

ご実家に関しては、なにか、温かみを出したかったです。

それから、国会議事堂なども、描きたい、一つでした。

銅像は、パソコンのデーターを参考にさせてもらいました。

お顔は、何回も加筆したのですが、思うように表現できませんでしたが

全体に先生の堂々とした貫禄は出せたのではないかと思っています。

バックの青色の空も先生のカラッとした分け隔てのない性格を表すことが

できたのではと思っています。