令和3年7月20日の読売新聞の朝刊で
顔写真入りで掲載されていました。
令和で初めての横綱が誕生したのです。
第73代横綱昇進、大変におめでとうございました。
嬉しくて仕方ありません。
二連覇を飾った5月の夏場所後、大関を日本に誘った母校の鳥取城北高校の
モンゴル人コーチ レンツェンドルジ・ガントゥクスさんを前に宣言した
そうです。
「上にはあと一つしかない。命を懸ける。絶対取ります。」とチャンスは
何度も巡ってこないことを自覚していました。
古傷の膝の爆弾を抱えている大関は、今場所は背中を丸め、膝に負担が
かからないように前に出る相撲を取り続けたとのことです。
23歳で大関になりましたが、自制と無縁の生活を送り、そのうちに
膝のけがや内臓疾患で番付を下げ、序二段まで転落しました。
車いす生活なども味わい「意地とかは序二段で捨てた」と当時の
思いでした。
師匠の伊勢ケ浜親方の説得で、引退をとどまり
食事制限、筋トレなどにより出直しました。
昨年7月場所の再入幕から7場所で優勝三度し、安定感が増しました。
今場所は寄り切りが9度の内容、そして無傷の14勝で千秋楽を迎えました。
惜しくも敗れて14勝1敗の成績で準優勝でした。
7月19日の横綱審議委員会で全会一致で第37代横綱に推薦することが
決まり横綱昇進が決まりました。
モンゴル出身者では5人目になりました。
横審の矢野委員長は「横綱不在の場所をけん引して2場所連続で優勝、今場所の準優勝を高く評価した」と、そして「奇跡といわれる復活を遂げたのは、長い相撲の歴史で特筆に値する。不屈の精神を思い起こさせる」とたたえられました。
「磨いてきたことで横綱審議委員会の皆様がそういう思いになってくれたことはありがたい」と感謝の言葉を述べられました。
インタビューでの横綱伝達式の口上の思いは
「改めて横綱というのは、どういう地位なのか、どういう生き方をするべきかを考えて、親方と女将さんと相談して、うまく形にできればいいかなと思う」
とのことでした。
千秋楽の戦いで「新横綱としてやってくれると思いますね。実際に組んだ時には重さも圧力もあった」とモンゴルの後輩の成長を認められました。
来場所で東西に並ぶ横綱に「照ノ富士関に託すというか、ちょっと楽になるのかな」
と話されていました。
ともに苦労を共に戦われた皆様の喜びは、いかほどかと思いますが
特に、奥様の思い喜びはひとしおではないかと、お察し致しております。
照ノ富士関、重ねて大変におめでとうございました。
苦労が実り、真の男に、そして、神の象徴にまで上り詰められましたですね。
これからは真の横綱になられてください。
ご活躍をお祈りしています。
7月22日 朝刊新聞に掲載 そして、大見出しで
「照ノ富士 初志貫く」
「照ノ富士 師が支えた復活」
伝達式の口上は【不動心を心掛け、横綱の品格、力量の向上に努めます】
その後の記者会見で「一番は周りの環境、支えがあったからやってこれた」
「ここまでの道のりは親方がいないと考えられない」
それを聞いた伊勢ケ浜親方は「周りで支えても、やらなきゃどうしょうもない。
本人が頑張った」と弟子をねぎらっていました。
さり気なく、おっしゃいましたが、すばらしい師匠であり、女将さんで
あられたのではと、お察しいたしました。
さぞかし感激されておられることででしょう、大変におめでとうございました。
横綱土俵入りの型は、親方、直々の指導のもと攻めの型を表現している
【不知火型】を選び、新たな横綱像を作りあげていく覚悟でいます
とのことでした。
【横綱は全力士のお手本となる協会の看板だ。若い頃はやんちゃで鳴らした照ノ富士
だが元々は頭の回転の速い優等生だった。誰からも愛され、尊敬される存在に。求められる横綱像は当然、理解していると信じている】と新聞に締めくくられていました。
よくぞ申されたと感心し、また筆者の純粋な大相撲を愛する気持ちを感じ非常に
嬉しかったです。
的確な、ありがたい、お言葉、誠にありがとうございました。