春まだ浅い春日山と謙信公を描きました。
空には馬上謙信の銅像を、そして手前の山の上に立像を、その下には
上越市埋蔵文化財センターで活躍されている謙信公の三様を描いています。
奥の山は、春日山城が、ありました春日山です。その下には、林泉寺が描いてあります。
春日山は、いつみても、癒される山です。
上杉謙信公は、1530年2月18日に長尾為景の四男 として生を受けました。
幼名を景虎と名のり、のちに輝虎(謙信)と名のった越後の戦国時代の大名です。
越後の国を統一して戦や政だけでなく産業を振興して国を繫栄させました。
毘沙門天を崇拝して戦の時には戦勝祈願をしました。
そして戦になれば自ら家臣の先頭になり戦われたそうです。
毘沙門天は仏教における仏神で四天王の一尊に数えられる武神で多聞天として
表わされています。
謙信公は後世に「軍神」、「越後の龍」と、あがめられ、生涯不犯(妻帯禁制)
を貫き、血液型は血判状よりAB型と判定されています。
信玄公の国は内陸のため塩が取れなく、同盟国の駿河の今川氏真と関係が悪化し塩どめ
にあいました。
謙信公は「わたしは戦いで、そなたと決着を付けるつもりだ。だから越後の塩を送ろう」と送ったそうです。
この感謝の印として「弘口」一振り(塩止め太刀)が信玄公より届いたとのことです。
この太刀は重要文化財となっています。
「日本外史」によると信玄公の死を伝え聞いた、食事中の謙信公は「吾れ好敵手を
失へり世に復た、これほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したとのこと
です。
家臣の中には、NHKの2009年の大河ドラマ「天地人」の直江兼続がいます。
1560年坂戸城主(南魚沼市)長尾政景の家臣の樋口兼豊の長男として生を受け幼名を
与六と名のっていました。
政景の妻の「仙桃院」に見込まれて輝虎の近習となり生涯、謙信公を、支えられました。
謙信公は戦国武将より一目もまた一目もおかれ大変に恐れられていました。
私欲などが、なかったので実現しませんでしたが、
世が世であれば、直江津(上越市)が江戸と代わっていたかも、そして日本の首都になっていたかもと推測された方もいらっしゃったとか?
本日は、令和2年4月27日です。
戦国武将人気ランキングの番組が、ゴールデンタイムのPM7時より3時間、堂々と
再放送されました。
つい先だって本放送が放送されたばかりなのです。
そして、謙信公が、そうそうたる戦国武将の中で、二位に選ばれたのです。
生意気な、言い方かも、分かりませんが、まだまだ日本人の眼力には
本質を見抜く、確かなところが、あるなあと、感心して、ほっと、しました。
そして、うれしくなりました。
当地では、毎年八月に「謙信公祭」が盛大に行われています。
謙信公役にガクトさんがされたり、そして、たくさんの観客で賑わっています。
最後になりましたが、謙信公はまれにみる男の中の男を貫いた、男が惚れる男では
なかったでしょうか、また惚れこんでしまいました。
作品については、描かれているところは、春日山の中腹より見た山城跡の景色です。
それぞれの謙信公は、難しかったです。
全体に春まだ浅い雰囲気が出るように、心がけました。
郷土の武将を始めて描いてみました。