小池至夫水彩画(通称ガッシュ)の世界

私、小池至夫(こいけのりお)が描いた水彩画を紹介しています。

睡蓮の花際立ついもり池

睡蓮の花際立ついもり池

9月18日(敬老の日)AM 10時ころに妙高高原まで赤倉シャンツェの取材と、妻のインスタの取材と、ビジターセンターの、おいしい珈琲をいただきに向かいました。

 

あらかじめ検索していたので、検討をつけて六角堂のわきを通り奥深く、入りシャンツェに向かい、左側に見えたのですが、雲行きも悪く、何か気持ち悪くなり、断念して引き返し、妙高高原ビジターセンターに向かいました。

 

とりあえず、おいしい珈琲と軽食などを注文し、外のいもり池を眺めたら睡蓮の花の際立つ白さが目に入り、この度の題材に決めました。

 

相変わらずのおいしい珈琲と軽食などをいただいて、早速外に出て睡蓮の取材をしました、そしていもり池の周りを妻とともに一廻りして、妻は野の花や栗の実など木の実等の、インスタの取材でした。

最初は白い睡蓮の花ばかりでしたが、反対の方に赤い花があり、思い通りの取材ができました、そしてアザミの薄紫の花も素敵だったのでついでに取材をしまして合計で60枚ぐらいの写真の枚数になりました。

時たま雨がぽつりぽつりと来ましたが、差し支えないほどで助かりました。

 

9月19日朝から構想を、そしてAM 10時43分よりスケッチに入り、22日AM 9時50分に終わり、22日PM 1時半より色付けに10月2日PM 3時20分に完成いたしました。

色付けについては睡蓮の葉の、いろいろな色あい、枯れかかっているもの、水の中の埋もれているものなどを描き、池の水面に入り、上の方から薄めの濁職の水を、そして水面のきらめきを、それから下の方のさざ波状の水面を描き、最後の一日で、すべての花を描き、至夫とサインして筆をおきました。

 

描き切ればこんなものですが、構図のとり方や、睡蓮の花や葉っぱの大きさや配置、水面の一様ではない変化の様子、上部と下部の水面の色合いのすり合わせ、水面の輝きの表し方、さざ波の表し方、葉っぱの一つ一つの存在感、素敵な花の表現方法、水面に映る花の影等々、試行錯誤の連続でした。

 

なお、花の大きさは、あえて遠近法などによらないで、絵画のバランスを考慮して描いてあります、そして花の色も、真っ白ではなく、ほんの少しの黄色、青、緑色などをそれぞれ、ひと花ごとに加えて描いてあります。

 

手前味噌で恐縮ですが、洒落た、人様に誇れる一枚になったかなあと、自己満足しているところです。

 

睡蓮の花がこんなにまでも素敵で、ゴージャスで、今ごろになり、ようやく気付いた次第です。

 

9月中旬の高原にある、いもり池の雰囲気を,美しい花園を、これでもかと描いたつもりですので、ごゆるりと鑑賞されてください。

 

睡蓮の花の美しさを再度申し上げますが何度でも鑑賞されてみてください。

 

有名なモネの『睡蓮』は、皆さんご存じで、おられると思いますが、僭越ではございますが、小生の味のあるこの作品も、いついつまでも心にとめて頂けたなら光栄に存じます。

 

皆様の真剣なご鑑賞、ご批評を重ねてお願い致したいところです。

 

いもり池、睡蓮等の、関連する絵画を今まで数多くの作品を手掛けてきましたが、四季折々の美しさ、感動を、いただいていて趣があり、素晴らしさに、いつもいつも魅せられています。

 

10月3日 読売新聞朝刊の一面のトップ記事に写真入りで【大谷 本塁打王 大リーグ】【44本 日本人初】と誇らしげに掲載されていました。

今季成績 打者 打率3割4厘 本塁打44本 打点95点

     投手 勝ち負け10勝5敗 投球回 132 防御率3割1分4厘

今期のレギュラーシーズンを9月3日を最後に欠場したにもかかわらず、この成績でしたた。

大谷さんのコメント「MLB で、これまで活躍された偉大な日本人選手たちのことを考えると大変恐縮であり光栄なことです。この目標を達成するのに協力してくれたチームメート、コーチングスタッフ、ファンに感謝します」

 

最後に、松井秀喜さんら、日本の先輩たちがたどり着けなかった勲章をつかみ取った、としめくられていました。

 

血のにじむような努力の賜と思いますが誠におめでとうございました。

 

同じく新潟版の大部分に『三波春夫 生誕100年 歌藝のふるさと』と題し掲載されていました。

76歳の時に新潟県民会館で模様された「県民文化祭」に新井満さんとともに司会を担当し、故郷の旧越路町の『灯籠揃い』のお祭り模様をみて、満州での九死に一生での走馬灯に出てきた一番楽しい幼いころの思い出の、このお祭りが思い浮かんだのか突如涙して会場を驚かせたとのことでした。

 

お酒はたしなまず、あちこちでの公演での食事では、あれこれ注文を付けることなく出されたものをきっちりと食べられたとのことですが、故郷の新潟を訪れたときには『新潟名物のへぎそばが食べたい』と口にされたそうです。

幼いころには、このへぎそばは「ハレの日」にだけ食べられたそうで、長女の

美夕紀さんは、きっと良い思い出があったのでしょうと、推察されておられました。

 

それから先祖のいろいろなお話が語られていました。

 

10月4日 昨夜もアジア大会で男子バレーボールがチュニジアに勝ち、陸上の100×4では銀メダルを、女子バスケットボールでは韓国に勝ち,五千メートルで広中璃梨佳さんが、ゴール手前50メートルぐらいで、惜しくも抜かれ銀メダルでした、等々、秋の夜長を楽しまさせていただきました。

 

三波春夫さんの続編 (最終章)

2000年11月12日故郷の越路町(現長岡市)の町制45周年を祝う歌謡ショーが町民体育館で模様され77歳の三波さんが万感の思いを込めてラストの『終わりなきわが歌の道』を歌われ無時に終演しました、病の中での公演だったのでした、舞台から下がった時には涙が頬に伝わってきましたそうでした。

 

そしてこの歌は三波さんが自ら作詞された曲で

【私の歌のふるさとは 父の民謡 私の歌の思い出は 母の子守歌 私の歌の故郷は 日本の心 私の歌の生甲斐は 人々の笑顔】

苦汁をなめて、精いっぱい努力して、人の真の心をつかみ、そして人生のありがたみ、人の温かみなどを知り尽くされて達観された、お人の歌と、お見受けしました。

とてもではないですが、まねはできませんが、ほんの少しでも、越後の大先輩の境地に近づけるように努力をしなければと僭越ですが思いました。

 

2001年4月14日【ママありがとう】と、妻にあてた言葉で、お亡くなりになられましたそうです。

そして辞世の句を2首残されました。

【逝く空に桜の花が あれば佳し】

【ふるさとを 魅せてやろうと 窓の雪】 一月の東京での病床にて

 

三波さんは、故郷を愛しそして故郷から愛されて、そして立派な生涯であらせられたのではないかと、誇り高く、我が郷土越後の大先輩をしのび思いました。

 

10月5日 昨日も男子サッカーが香港に勝ち、男子バレーがトルコの勝ち、陸上競技でも数々のメダルラッシュ、夜遅くまでTV を見ましたが、素晴らしいですね。

 

昨日妻に頼まれて段ボールの箱の処分をしました。

箱の成型に太い大きなホッチキスが使われていて、箱は頑丈なのですが、それを取り除くのに大変でした。

マイナスドライバーでホッチキスを起こし、プライヤーでひねりもぎ取るのです、なんと大変なことか、できればほかの方法で固定していただきたいものですね。

資源ごみ集積場へは段ボールをひもで、縛って持参しました。

 

昨日は大変にうれしいことがありました、それは小生のブログのカウントが、一日で「19」頂いたのです、誠にありがとうございました。