『バテンの家』の長編小説の冒頭ですが
【雪国の冬は、時雨(しぐれ)の前ぶれから始まる、シベリアから日本海を渡って来るモンスーンがもたらすこの時雨は、烈しい風を断続的に、はらみながら、軒や庇を吹き付け一夜じゅう降りに降る】
なんという素晴らしい情緒に満ちた文章なのでしょうか、雪国越後高田の「しもあれ」時期の模様を端的に、高田生まれだからこその文面だと痛快に感じて、感心しているところです。
私はこの時期になると、いつもいつも、この名文面が,好きで 々 酔いしれて、惚れぬいて、思い返しては情緒に浸って楽しませていただいています。
このことを幾度このブログにつづったことか数えきれないくらいです。
同じく冒頭の名文には
川端康成さんの、「雪国」では【トンネルを抜けると雪国だった】
等々がありましたですね。
『バテンの家』の著者は井東汎(ひろし)さんで、これは筆名でして田中武さんでいらっしゃいます。
先生は小生の母校である旧高田工業高等学校の恩師であらせられ、当時は教頭先生でもあらせられ昭和41年より43年に国語の授業を教えて頂きました。
授業は大変なこだわりのある熱弁でして、目が鋭く、銀髪のオールバックで、ジェントルマンであらせられました。
先生は旧高田市の大町三丁目で生を受けられ旧制高田中学(現高田高校)より早稲田大学の国漢科を出られ、文部省社会教育局で映画認証官になられ、その後脚本家として活躍され、昭和20年戦災により帰郷され、旧高田工業高等学校の教論になられ、当時郷里に疎開中の芥川作家の小田嶽夫主宰の「文芸冊子」の同人として活躍もされ「文芸高田」の編集長になられ、そして学校では、教頭先生にもなられました。
先生の作品には「光と影」「バテンの家」「アモク」の長編小説があり、ほかに短編小説やエッセイ、シナリオといろいろありました。
「光と影」の帯付には小田嶽夫さんが、以下の推薦文を載せられています。
『舞台は北陸の雪深い町、素材はそれにマッチした暗いもので、それが一つのユニークさだが、しかし、そこには全体を光被する一條の光がある。この作は一種の「生命の
書」ともみられるが、それを追求する著書の筆は粘り強く、執拗で、あくまでも自己に忠実だ。「北陸魂」とでも言いたいものが、そこに感じられる』
以上は、やはり旧高田工業高等学校の恩師であらせられ、そして北城神明宮の宮司でもあらせられた玉泉典夫先生の名著であるエッセイ集の「春の使者」より大部分を拝借させていただきました。
「春の使者」のエッセイ集では、先生のお宮での大欅の洞(うろ)で生活し、育ち、そして巣立つフクロウの親子の興味深い綿密な観察や、先生の幼少期での思い出や、「文芸高田」での交友や、ご活躍や、ご家族のお話や、いろいろな方々との交友録や、北城伸明宮のお話やら、興味深いお話ばかりで、そして小生もなじみの方々のお話だったりと楽しく読ませていただいたものです。
このエッセー集は、先生からお声がけがあり、直接分けて頂きました。
玉泉先生とは、卒業後の会社勤めをしているときに宮司をされておられる関係から、地鎮祭とか新年のお祓いとかで、お世話になったり、また気さくで、お酒好きであらせられたので、たまに町の夜の繁華街でお会いしたりと、よくしていただいて楽しい思い出ばかりでした。
以下もやはり、玉泉先生の「春の使者」からの引用ですが、
「バテンの家」は、田中先生の最高作ではないかとのことで、ユニークな高田の地場産業であるバテンレース(手編みのテーブル掛けなど)に材をとって、加工業者の生態とバテンの移り変わりを厳密に考証して描いてあります。
この作品は、直木賞の二次選考にまで選ばれた名作で、先生の作品の中では最高傑作と思われます、と玉泉先生がおっしゃっておられました。
昭和45年の発刊でした。
また先生曰く「田中先生の作品は、概して地味だが、作風が手堅く私小説的な色合いが濃いものでした」とのことでした。
おりしも、今日、令和5年11月11日の高田は昨夜からの雨続きでして、今朝も冷たい雨が少し斜めにたたきつけるように降り続いていて、先生の冒頭の文句が浮かび上がるようでした。
ただ今、午後の2時少し過ぎたところですが、朝からのこのブログを綴り続けて、冷めたホット珈琲をすすりながら、綴り終えるところです。
11日 市内の画廊にて某サークルの展覧会を見てきました。
会場は来場者でいっぱいでした。
皆さん思い思いで、のびのびと、ご自分の描きたいもの、表現したいものを、楽しそうに作品作りをされている様子が、手に取るようにわかり、思う存分と拝見させていただきました。
年々と表現力が増しておられるようで、素敵な作品がたくさんありました。
サークルで知り合いの方がおられ、お話をさせていただきましたが、絵画を描くのが楽しくて 々 しょうがないような雰囲気が伝わってきて、こちらも嬉しくなりました。
先生の、ご指導の賜と同時に、それにこたえられる皆さんの姿勢が伝わってきて、大変に好感を持ち、すがすがしい気分でお暇してきました。
11月12日 (日曜日)
燕温泉で昨日、雪が降り、5センチの積雪だったそうですね、いよいよ雪の季節になりましたね、高田は昔から、南葉山に雪が三回降ると平野部でも降雪があると、言われてきましたが、この冬は雪がそれほどでもないといわれていますので期待したいものですね。
藤井八冠が竜王戦にてストレートで防衛して三連覇されましたね、大変おめでとうございました、人間業とは思われないのですが、どこまで記録を伸ばされるのでしょうかね、
もしも升田幸三さんが生存されておられたら、どのように対処されたのでしょうかね、
A 級八段の皆さんはじめ、将棋界を盛り上げるためにも発奮されてほしいものですね。
午後からリージョンプラザにて直江津民謡保存の「波路会百年の祝い」を妻と見てきました。
それにしても大正時代から百年もの長い間継続されておられるということは、素晴らしい事ですね。
上越市長、県会議長等々のお祝いのお言葉や、斎京四郎県議会議員等々の司会で波路会の方々の民謡、踊りと、友情出演の方々の民謡、踊りと、カラオケの歌声等の3時間余りのステージでした。
久しぶりの日本の伝統的な民謡、踊り等を堪能させていただきました。
司会の方が上越市長さんに「小中学校にて運動会などの時に郷土の民謡での踊りなどを子供さんに積極的に取り入れて頂けたら」と、一考していただいたらいかがでしょうかとのお話もお願いされておられました。
郷土愛の観点からも素晴らしいことであると思いました。
いつもながら市長さんが自ら来られて内容のある素晴らしい祝辞を述べられ、そして長い時間観覧されておられ、その姿勢に、上越市民の一人として感激の極みでして、波路会の皆様も同様に感じられておられたのではないかと思いました。
ごく親しい方々も民謡の踊りで出演されておられ、興味深く見させていただきました。
それにしても波路会の皆さんの出演回数が半端なく多く、その都度お着物などの取り換えやら、そして肝心な演目の消化等々、どれほど時間をかけて練習されたことか並々ならないこの百年の会にかけられた思い、そして心意気など、素晴らしく尊敬に値し、同じ上越市民として、大いに誇りに思いました。
最後のステージでの観客の盛大の拍手が鳴りやまないぐらいでした。
今日は、民謡や踊り等を通して日本人の魂に触れたみたいで感激しました、いいものを見せて頂きました、ありがとうございました。
そしてこの冊子を見たら多くの直江津の、お店、会社、企業の協賛されたお名前が掲載されていましたが、地元の結束、郷土愛、そして港町直江津の、素晴らしい心意気を感じさせていただきました。
夕刻に30分ぐらいですが、初日の大相撲を見ました、力士の皆様の一生懸命な姿勢を見て、ああ、いいものだなあと思い、また楽しみな2週間余りの時間が、楽しみで仕方ありません。
TVをつければ、世界のあちこちでの争い、悲惨ですね、何とかならないものですかね、争いをしても何も得るものがないことは過去の歴史が教えてくれていると思うのですが、残るのは遺恨だけと思われますが、今まで何を学んできたのでしょうね、人間の性ですか、あまりにも愚かで問題になりませんね。
怖いのはこのような非道なことがまかり通っているということですが、これが常習化することがなお、恐ろしいことですね。
11月13日 今日は新聞の休刊日でして、何か物足りないような、そうかといって新聞を見ても、何のことはないのですが、そう考えると日常のサイクルがいかに大事なことであると、言うことですかね。
まあ、とにかく、朝を迎えられたことを喜ばなければならないですね。
朝珈琲が恋しくなってきました。
昼間あんまり寒いので、薄めのジャンパーから冬用のパーカーに着替えました。
先程少し晴れ間が出ましたが、また、冷たい雨が、PM4時半に、なるところです、これから大相撲を見ようと思っています。
そういえば先程妻から、おいしい日本茶が出てきました、小生と、お茶の入れ方で、どこが違うのか、わかりませんが、ちょっとした、さじ加減なのでしょうか、同じ、御茶っ葉ですのにねえ、10年早かったですか。
11月14日 朝から白アリ防除の5年保証の更新で、施工していただきました、かなり長い保証もできるのだそうですが、薬の効き具合が強烈になるため、いろいろ語弊があるようで、この保証期間になっているそうです、ほっとしました。
11月15日 朝から定期検診で、J病院へいってきました。
家に戻る道すがら、秋晴れの中、うっすらと雪化粧した妙高山がすがすがしく見え、山麓線を走っていたら、いつの間にか街路樹の葉が、ほとんど落葉していました、落ち葉は、どこにも見当たらず、風で飛ばされたのでしょうか。