昨日(9月26日)、妻が、お知り合いの方から「峠の釜めし」を、いただいて、小生も夕飯に、ご相伴に授かりました。
元祖「峠の釜めし」 商品のパッケージには、信越本線横川駅・創業明治18年・元祖峠の釜めし・駅弁・峠の釜めし本舗おぎのやと書かれていて、写楽や富士山の浮世絵の図柄が印刷されていました。
その裏面には「お客様から寄せられた益子焼の器が重いという、ご意見を受けて制作しました。峠の釜めしの象徴ともいえる益子焼の容器。その丸く滑らかな形・質感を和紙の風合いで表現しています。原料には環境にやさしいサトウキビの搾りかすを使用しました。」 そして原材料名・製造者・栄養成分・製品の温め方まで、ありました。箸の袋でしたか日本最古の駅弁屋とも表記されていました。
そして容器の隙間に袋入りの竹箸と思われる箸が、つまようじと共に、容器の中には、やはり袋入りの、お手拭きが、なんという心配りなのでしょうかねえ。
製造者 株式会社 荻野屋
ほうじ茶を大きめの湯吞じゃわん二つになみなみ入れて、一緒にいただきました。
食材のほかに、プラスチックの容器の中には漬物などが、キュウリ、ナス、ゴボウ、梅干し、そして、わさび漬けまで入っていました。
釜めしは、硬めの味が、しょんでいる、ちょうどほどよい量のご飯の上には、栗・杏・鶏肉・ごぼう・ウズラの卵・しいたけ・グリンピース・もうそうだけ・しょうが などの加工品が、入っていました。
大変おいしく味わっていただきました。
以上の事柄で、間違いがありましたなら、ご容赦ください。
それにしても、昔から寸分変わらずの中身と思われる、釜めしですが、いろいろな要因で調達が困難なことも数々あろうかと思われるのですが、創業者の方から、現在何代目のお方か、わかりませんが、そして変わらずの味付け、細部にわたっての気配り、心配り、そして環境に配慮されたり、老舗の、いや、ご商売されておられる皆様一般の、鏡であり、素晴らしい業績であられると感心しているところです。
世界中が、日本中が、乱れに乱れている世の中の中で、このような律儀で、筋道立った、素晴らしい立派な経営者がおられ、まだ素晴らしい日本人がおられることに安堵して胸をなで下ろして、見習わなくてはと思い、また大勢の人々が見習っていただけたならと願っているところです。
昔から信越本線の横川駅には 、素通りはできませんでした、必ず、この釜めしを、あの瀬戸物の容器に入っている釜めしを、そして車内販売での、あの、お茶、うすいプラスチックにはいり、また、ふたがわりの、おちょこ風の入れ物にお茶を注ぎ、汽車に揺れながら、お茶を飲みながら、おいしくいただいたのを思い出しています。
今では、近所のスーパーで、時たま、この釜めしが並んでいるときがあり、もとめて頂いています。
「峠の釜めし」は、日本の食文化の誇りとして、いや日本の文化として、いついつまでも継続、存続していただきたいと、僭越ではございますが願っているところです。
9月27日 昨夜TVのチャンネルを動かしていたら卓球の女子団体のアジア大会の決勝戦が映し出されていて、一人五試合のうち、早田さんが一つ、平野さんが二つ張本さんが一つ勝たれましたが、中国チームに惜しくも敗退しての銀メダルでした。
三人ともにアウェーの中で物おじせずに、正々堂々と戦う姿勢には感激をしました、ものすごい練習もされ、すごく精神力も鍛えられたのでしょう、きっと後々の戦いには、良い結果としてあらわれてくると信じていますので、今後のご健闘、ご活躍を、願っています。
日本人女性、万歳ですね。
「NHK の受信料値下げ」 細かいことはわかりませんが、企業努力により実現されたのだそうです、大変に喜ばしいことと思いました。
読売新聞朝刊の新潟版に「国民的歌手原点の民謡 三波春夫 生誕100年」という見出しで、紙面半分ぐらいに写真入りで書かれていました。
生誕から、いろいろなことが描かれていて、父の事業の挫折から13歳の秋に一家で東京へ居を移しましたが、故郷を去り際に「越後の晩秋の夜風は、今にも雪を降らさんばかりに冷えきっていた」と後日に述べられていたとのことでした。
私も立場は違いますが、13歳の春に生まれたところから居を移した経験があり、その寂しさや、無念さなどの心境がわかるように思いました。
上越タイムスの糸魚川版に、「母校で化粧まわし贈呈」と一面に、お二人の誇らしい雄志の立ち姿の写真入りで、新十両の大の里関と、高橋関が、海洋高校へ、訪れ、化粧まわしの贈呈式に出席されましたと、化粧まわしには、同校の校章があしらわれていて九月場所から土俵入りで披露されている。
海洋高校の同窓会の一般法人の能水会と同校が代表して贈呈した。
そして糸魚川市役所を訪れて、米田市長より「糸魚川の誇り」と称されて「市もしっかり応援をしていきたい」と大歓迎を受けられました。
糸魚川市民も、新潟県民も、応援して、見守っていきたいと思っておられると思いますので、ますますのご活躍を願っております。
9月28日 近所のお庭を見たら、夏の雨のないときに、茶色く枯れ葉だった木々が、最近の雨で、若葉が出てきたのか、それとも生気がよみがえったのか青く見えて、ほっとしています。
三波春夫続く
上京後には親元を離れ13.14歳で商店や、工場に住見込みで勤め、黄昏時には涙がボロボロと、こぼれたとのことでした。
20歳で陸軍に入隊し、終戦末期に満州にて、ソ連軍の猛威にさらされて塹壕の中で死を覚悟し、その時に楽しい村祭りの思い出と、悲しい7歳の時の母親の死の場面が鮮明に浮かんだのだそうでした。
シベリアでの抑留生活の収容所の中で大ぜいの戦友に頼まれて、皆の前で、浪曲や歌などを披露し、浪曲上等兵として、あがめられました。
4年の歳月の後で、帰還することができ京都の舞鶴港に、そして直江津、柏崎、トンネルを抜ければ家族の疎開先の塚山村(現在長岡市)へ、はやる心を、と回想されていました。
幼青年期に新潟県主審の浪曲師の寿々木米若さんを敬愛されていて、自身も浪曲師南
篠文若としてデビューすることに。
9月29日 (金曜日) 今日は、中秋の名月の日ですね、予報を聞けば、だんだん良くなるとのことで、お昼の番組で、我が北陸地方は、「チャンスがあれば」とのことでしたが、せっかくの名月、そして十五夜とのマッチングだそうで、今度見られるのは2030年だそうですね、今宵は真ん丸のお月さまをぜひとも見たいものです。
『らんまん』 NHK のBS で今日の最終回を見ました。
万太郎とすえ子の純粋な夫婦愛や、純粋な生き様を、そして今までの登場人物をよりたくさんに文面を見せるようにさりげなく流れ、そして姉夫婦の、新酒「輝峰」を携えての再会、念願の植物図鑑の完成、その最終頁には妻の名前をとった「スエコザサ」を妻からは、私は忘れてもいいので、生涯植物と向き合ってほしいとの懇願、本当に若者にも夢を与えてくれたり、人間の、あらゆる損得勘定のない一途な生き方などを、そしてそれを無償で応援したくれる人々を、とことん見せて頂きました。
非常にさりげない、センスの良い、そして趣むきのある最終回でした。
ドラマに関係された皆様方、大変ご苦労様でした、そして大変にありがとうございました。
「日本縦断 こころ旅」 火野正平さんが、懐かしい言葉を放ってくれたのでした、それは北海道ロケにて、ヒグマの話から、「熊の胆」 くまのい のことでした。
パソコンで調べましたら
効能 食欲不振・二日酔い・悪酔いのむかつき・便秘
金額 第2類医薬品 熊胆圓88包 6300円(税込み)
小さなころに、言葉が悪いかもしれませんが、おなかの調子が悪いときにはよく「にせ熊」と言われたものが普及していて本物は飲まれなかったのでこれを、のんだものでした、ものすごく苦かったのを覚えています。
続 三波春夫さん
1949年に復員して浪曲師として活動する中、結婚し、夫婦での巡業ののち1961年【チャンチキおけさ・船方さんよ】で、歌手デビュー、名前を三波春夫と、このレコードは200万枚超えの大ヒットになりました。
♪ 故郷(くに)を出る時 もって来た 大きな夢を 盃に そっとうかべて もらすため息 チャンチキおけさ おけさ涙で 曇る月 ♪ (歌詞の三番)
この歌を上野のガード下の赤ちょうちんの屋台で聞いていた、幼なじみのヨネックスの米山社長が「会社を三年で日本一に」とのことが叶わずにいたときに、頬から涙がつたい、この歌で、うちひしがれていた心が奮い立つのを感じたとのことでした。
後年、このことを打ち上げたときに三波春夫さんは「俺の歌でミノル(米山社長)が事業に成功したことは、歌手冥利に尽きる」と満足そうに語られたとのことでした。
米山社長は三波春夫さんの一年後輩だったとのことでした。
故郷を離れて都会に生きる者の孤独を歌った、チャンチキおけさは、当時数多くいた集団就職の若者の心をとらえて離さなかったのでしょうね。
1964年 「東京五輪音頭」
1970年 「世界の国からこんにちは」
三波春夫さんの歌声は戦後日本の代名詞となりました。