まさにこの絵画のてっぺんにふさわしいと思われる春日山を描きました。
3月11日AM10時よりPM2時53分に出来上がりました。
空にまつわるアウトラインを描き、そして空を、松の群生を、右の大きな木を、左の木々を、そして山肌を描き出来上がりました。
写真取材では山肌の様子がはっきりしていなく、描き切るのが難解でした。
この絵画で、すぐに春日山を連想していただけたなら嬉しい限りです。
越後の龍とあがめられ、第一義をかざして上杉謙信公は、この山城で采配を振るわれておられたのでしょうね。
「夏草や兵どもが夢のあと」 このような俳句がありましたね。
「春日山城跡」
指定 国指定文化財
指定期日 昭和10・8・27 昭和49・3・18 昭和55・3・14 平成12・9・7
種別 史跡
地域 旧高田春日地いき
所有者 上越市ほか
標高180メートルの春日山に築かれた春日山城、別名「鉢ヶ峰城」とも言い、戦国時代の名将上杉謙信公の居城として知られています。
越後府中の要害(砦)として築かれました。
「春日神社」
春日山城の名称のもととなり、現在の春日山山頂に約500年、現在地に遷座してから600年の歴史があります。
奈良の春日大社の分霊をまつっており、春日大社の記録では全国の春日大社の中で最初に出てくる神社であるそうです。
春日山城全体の総鎮府として謙信公時代より崇敬の念あつく地域の産士神として大切にされてきました。
「林泉寺」
謙信公の祖父である、長尾能景が父重景の菩提を、ともらうために明応6年(1497年)に建立した寺院。
ここで謙信公は名僧天室光育の厳しい教えのもと7から14歳まで過ごしました。
上杉氏に替わった堀氏も菩提として、のちに高田藩主もあつく保護していました。
墓どころには、謙信公の墓や、川中島合戦の戦死者の供養塔などがあります。
「上杉謙信公」
1530年2月18日 長尾為景の四男として生を受けました。
幼名を景虎と名のり、のちに輝虎(謙信)と名のった戦国武将であります。
越後の国を統一して戦や政だけでなく、産業を振興して国を繫栄されました。
毘沙門天を崇拝して戦の時には戦勝祈願を行いました。
そして戦になれば家臣の先頭に立ち戦われたそうでした。
生涯不犯(妻帯禁制)を貫き、血液型は血判状よりAB型と判定されています。
川中島合戦の宿敵である武田信玄公に塩を送られたとのことです。
信玄公の国は内陸で塩が取れず、同盟国である駿河の今川氏真と関係が悪化して塩止めにあいました時に謙信公は「私は戦でそなたと決着をつけるつもりだ、だから越後の塩を送ろう」と、これに対して信玄公からは感謝のしるしとして「弘口」一振り(塩止め太刀)が届きました。この太刀は重要文化財になっているそうです。
「日本外史」によると、食事中の謙信公は信玄公の死を知り「まれにみる好敵手を失えり世に復た,これほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣されたとのことでした。
数年前のTVの番組で戦国武将人気ランキングで、並み居る武将の中で堂々と第二位を獲得されました。
私は、まだまだ日本人の眼力には確かなところがあるなあと感心したところでした。
毎年八月に、当地では『謙信公祭』が盛大に開催されています、以前には謙信公役にガクトさんも何回かなられ、かなりの人気ぶりでありました。
謙信公はまれにみる男の中の男を貫いた男が惚れる男ではなかったのではなかったでしょうか、またまた再度ほれ込んでしまいました。
最後に某歴史学者の方は【謙信公が少しでも権力欲があったなら越後の直江津「現上越市」が江戸(東京都)に代わり日本の首都になっていたのではないか】とおっしゃっておられました。
世が世であれば高田に住む私は今ごろ、タワーマンションのさなかに住んでいるかもしれませんでしたね。
3月12日
日本映画の2作品がアカデミー賞を受賞されました。
第96回米アカデミー賞
長編アニメーション賞に 「君たちはどう生きるか」
視覚効果賞に 「ゴジラー1・0」
携わられた方々に、敬意を表しまして、大変な受賞おめでとうございました。
日本人として、人間として、誠に尊敬し、誇りに思いました。
またまた荒れる春場所ですね、11日の取り組みですが。
大関霧島関が熱海富士関に敗れました。
大関豊昇龍関は錦木関に勝ちました。
大の里関が豪ノ山関に勝ちました。
富山県出身の朝乃山関と石川県出身の大の里関が共に勝利されて北陸地方の方々は勇気をいただいておられるのではないでしょうか。
私のブログも昨日は「7」のカウントをいただきました、励みになります、ありがとうございました。